ゲスト自己紹介(平田) 「インディーズバンドで9年間やってから――」

永田:このままつづけて平田英治さんをお迎えします。平田さんは地元で活動しているミュージシャンのために場所をつくるところから、音楽的に仕事して行けるための彼らの視野を確保するようなところまで、いろいろな「場」をつくっていらっしゃるのが、僕は常々拝見していて素晴らしいなと思っています。

一同:(拍手)。

平田:お願いします!

永田:今日は新潟から来て下さいました。お生まれは東京・東大和市で、小学校4年生まで?

平田:はい。父親の実家が山梨県の身延町という山奥の地域で、小 5 から高校までいました。サッカーが好きだったんですけど、山梨の山奥だったので、サッカー部がそんなにないんですよね。近くにあったチームは肌に合わず、 サッカーをやりたいという憧れを持ったまま高校まで行って、そこでサッカー部に入って、かなり没頭しました。指導できる顧問の先生は1年目しかいなくて、その後も別の顧問が一応いるんですが、名ばかり顧問で、試合にはついてくれるけれど教えてくれるわけじゃない。イコール自分たちでやるしかなくて。「サッカークリニック」という専門雑誌があるんですけどそれを買って読んでいました。

永田:僕も読んでいました(笑)。

平田:ホントですか? そんな人、あんまりいないですよ! 通販で取り寄せて、それで勉強して、練習メニューを考えていました。それからサッカーの指導者になりたいと思って新潟へ。新潟には当時、ほぼ唯一に近いサッカー専門学校があったので。そこで勉強しながら、3年生くらいのときに友達と音楽を始めました。それまでもやりたい思いはあったんですけど、才能もないし、特別な人だけがやるものだと思っていたんです。人にもそう言われたりしました。

永田:山梨時代からずっと音楽は聞いてはいたんですか?

平田:はい、すごく好きでした。ザ・イエロー・モンキーを友達が演奏しているのを見て、友達は格好良くなかったんですけど、曲は格好良かった(笑)。うわあ、やべえ、バンドかっこういいなと思って、そこからコツコツやっていた。〝ギター弾いて、だいたい1ヶ月くらいのところ〟みたいな、そんな感じだった。で、専門学校のときに始めて。
サッカー指導者の資格は取ったんですけど、卒業後は、当時いっしょにいたメンバーと上京して音楽を始めました。それからあれこれやっていたら9年経っていて――。

永田:それは、ライブハウスで活動したり?

平田:そうですね。ホームはLa.mama[ラママ]でした。ザ・イエロー・モンキーがホームにしていたので憧れがあって。インディーズバンドで9年間やってから、これに入ったんです。
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あらためてMUSIC DROPの平田です。よろしくお願いします。9年で辞めた理由は、売れないまま10周年に入るのがすごい悔しくて嫌だったからです。

一同:(笑)。